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外川 F丸 ヒラメ (10/18)

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 腰痛も和らいだからさっそくお遊び。

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 一投目二投目と幸先良し。

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 勢いは続くもんで三投目も・・・、最低でも3キロあると期待して上がった青物(イナダ)にガッカリ。

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 腰への負担は注意していたせいで経過良好だが、青物がハシャギ過ぎたせいで今度は肩が痛い。

甲州街道の山麓巡る一週間 (10/26~11/3) 其の①

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甲州街道は江戸を始点に西へと甲府盆地を抜けて諏訪で中山道と合流して終点となる、国道20号とほぼ重なっている。

   国道20号八王子の銀杏並木
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 首都高速で新宿を抜け中央高速道路を八王子で下りて国道20号で大垂水峠を経て相模湖へ、その先の新笹子トンネルを抜け甲府盆地へ出た。
 運転免許取り立ての頃に十人余りが車三台に分乗し、初ドライブに相模湖まで来たのを思い出した。
   
   久し振りに美味い蕎麦を食った
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 甲府盆地に入ると赤石山脈(南アルプス)と奥秩父山塊のパノラマが待っていた。数々の名峰の頂に登りたい衝動に誘われるけども体力的に無理でしょう。

   新笹子トンネルを抜けて甲府盆地に入ったら遠くに見えるは甲斐駒ケ岳だよね
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 更に西へ進み甲府市か韮崎市あたりまで来ると奥秩父の稜線に五丈岩を見つけた金峰山である。北杜市まで来ると遠くからチラチラと見えていた甲斐駒ケ岳は目前に八ヶ岳は裾野からドカンと現れた。

   韮崎市あたりからかな八ヶ岳も
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 殊に甲斐駒ケ岳に目を奪われた、黒戸尾根や摩利支天を近距離から望みいつの日にか登るチャンスあるだろか・・・、解らない。

   甲斐駒ケ岳 山麓の北杜市
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   望遠で甲斐駒ケ岳 右側が黒戸尾根かな? 山麓の北杜市から
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   更に望遠で甲斐駒ケ岳 左側が摩利支天ですね 山麓の北杜市から
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 白州のウイスキー蒸留工場を見学
 「見学は無料でウイスキー飲み放題」と聞いていた大手の会社は太っ腹ですね。とわ申せ飲酒運転は厳禁、受付で支給された画像の札を首から下げ構内に入場する、この札を下げた者はアルコール試飲不可の印です。

   此れがアルコール試飲不可の首飾り
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 一万本ものウイスキー樽が貯蔵された倉庫に入ると強烈な香りにめまい・・・、匂いだけで酔ってしまいそうだ。
 ガイド曰く、貯蔵庫の空気にアルコール分は含まれていないので深呼吸しても酔う事はないそうだ、それでも酔っ払いそうな感じ。

   貯蔵庫です
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 見学を終えると試飲会場が待っている、此処で生産している「ウイスキー北杜の水割り」と「南アルプス天然水」それから子供用には清涼飲料水の「なっちゃん」が用意されていて一定時間だけ飲み放題だが、運転手の私は「南アルプス天然水」のガブ飲みで我慢・・・コンビニで買って飲む天然水より美味かった気がする・・・(笑)

   試飲コーナーに用意されたウイスキー水割りと只の水
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   天然水は美味かった
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余談ではあるが 富士山と八ヶ岳の背くらべの神話
昔々、八ケ岳と富士山はいつも「私の方が背が高い」「いや私の方が背が高いわ」と背比べ喧嘩をしていました。
いつまでも続く背比べ喧嘩に阿弥陀様が「よし、私が背の高さをを計ってあげよう」と乗り出しました。富士山と八ヶ岳の頭の上に樋を渡して水を流したのです。すると水は富士山の方に流れていきました。水は低い方に流れますから、富士山の方が低いということになりました。「やっぱり私の方が高かったわ」と勝ち誇る八ヶ岳に、富士山は「これは何かの間違いよ」と怒って、頭の上の樋を握って振り回し、八ケ岳をめった打ちにしたのです。それで八ヶ岳は今のように八つに分かれて富士山より低くなりましたとさ。

この話はなかなかよくできていて「樋に流した水は今でも富士五湖となって残っています。」ホントなのかな?
もう一つ「水が流れてきたことで自分の方が背が低いと悟った富士山は『ヤツがたけぇ』と降参したので『八ヶ岳』になったというとオチまであるそうですが・・・(笑)

さて、「昔は八ケ岳の方が高かった」というこの話は単なる神話ではなく。地質学的には八ヶ岳は130万年前に産声をあげた古い火山で、20万年ほど前には阿弥陀岳を中心とした火山が形成されて、標高は3400M程だったと推測されています。
一方、富士山はそのころやっと誕生した新しい火山で標高2000~2500M程に成長した頃だろうと推測されています。

   小淵沢から八ヶ岳 西岳・編笠山・権現岳が望めるが主峰の赤岳は権現に隠れて見えない
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   八ヶ岳の西側 富士見高原に回り込むと主峰の赤岳が望める
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   主峰の赤岳を望遠で、中央の黒いのが阿弥陀岳 その右側が赤岳
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 続く・・・

甲州街道の山麓巡る一週間 (10/26~11/3) 其の②

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八ヶ岳山麓の原村を訪ねる
 1999年12月に山岳会の代表より池学様が北アルプスの槍穂高で行方不明(遭難)の報せが入る。
 当時私は会社に勤めの38歳、あの頃職場ではコンピューター2000年問題対策で引っ切り無し(どのような不具合が生じるかも解らないのに対策とは可笑しな話だが)情報システム部のリストに従って命ぜられるままに全てのパソコンの設定を点検したり、万が一不具合が発生した時に用いるテンプレートに繰り返し目を通していた毎日の記憶がある。
 行方不明の池様とは更に遡る事20年以上も昔で、私が学生の頃の世話になっていた山岳会の先輩で、八ヶ岳の麓村にログハウスを構え奥様とお子様が3人、この他に私を含め山好きの数人が出たり入ったりと年中居候で、此処をベースに山歩きに没頭していた頃があった。
 行方不明の報せを受取った時既に山への情熱を失っていたし当然山歩きからも遠ざかっていた。故に捜索活動に加わる自信無く、僅かな額を捜索資金として援助し会の皆に理解を得ることにした。
 捜索も難航して一年が経過しようとする頃に池様は発見された。

 以下は今もネットにある捜索から発見に至るまでの記録記事のコピーである。
「単独登山者をさがしています」

1999年11月20日から23日までの予定で、長野県大町市七倉から入山し、北鎌尾根から槍ヶ岳経由で穂高岳に向かったまま行方がわからなくなった男性を捜索しています。

○北鎌尾根、硫黄尾根、槍・穂高岳周辺に入山される方、または上記日程で入山された方の協力をお願いします。
○特に最後の確認日の状況から、湯俣~千天出合~北鎌沢出合~北鎌尾根~槍ヶ岳間。
○落ちている装備や、目撃情報ありましたらお知らせください。

◎行方不明者「池 學さん」男性(51歳)身長165cm 体重63 ガッシリ型

*服装と主な装備
・ヤッケ・オーバーパンツ(赤)
・上着(紺と白の大きな格子柄のカッターシャツ)
・ズボン(グレーのツィード)
・帽子(黒混じりの赤)
・スパイク付き防寒長靴(青)
・運動靴(雪のない所は使用している可能性大)
・ザック(濃い緑と紫のコンビ)
・テント(黄色のゴアライト)
・ピッケル
・尻皮
・背負子(使用している可能性有)

◎確認されている当時の行動
1999年11月20日(土)[晴] 大町市七倉→湯俣(テント泊)
1999年11月21日(日)[晴] 湯俣
(7:00AMに水俣川より北鎌尾根に向かうと思われる池氏を確認)→以後消息不明

連絡先:RCC神奈川遭難対策連絡事務所
東京事務所(電話/Fax 兼用)042-000-0000(鈴・・・方)(電子メール)・・・・@・・・・
長野大町警察署(地域課)電話0261-22-0110

1999年12月18日 RCC神奈川/長野県大町警察署

RCC神奈川の鈴・です。
当会の会員池学の捜索に関しましていろいろご協力いただきありがとうございました。
9/18早朝、やっと遺体を発見することができました。
発見場所は槍の直下、岩小屋沢右俣の上部、稜線から約600mの所でした。
この連休に捜索ため、会員・友人計14名で入山しました。しかし、天気が非常に悪く、9/16の午後3時頃、頂上から霧の切れ間に岩小屋沢右俣の上部に散乱物を発見したのですが、すぐに霧で覆われ、場所を特定する事ができませんでした。
9/17は月曜まで職場を休める5名を残して、私を含む9名が下山し、残った5名が、天気が多少回復した夕方、双眼鏡で場所を確定、翌9/18の早朝から捜索を開始し、二名が稜線から下降したところ上記場所の散乱物が池であることを確認しました。
槍の頂上で無線連絡のため、待機しているメンバーにこのことを伝え、このメンバーが槍ヶ岳山荘の公衆電話から6時59分、一時帰宅した我々に発見の第一報の連絡を行いました。
現場のメンバー4人は池の遺体を二つのザックに収納し、担いで槍の穂先を登り、槍ヶ岳山荘に搬送しました。これから先現地のメンバーは横尾まで担いでおろすつもりでしたが、大町警察署からの指示で、ここからヘリで大町警察署まで移送することとなり、1名が遺体と共にヘリにのこり、後の4人は槍沢を下降しました。
遺体は大町警察署に12時30分頃到着し、その後検死が行われました。
死因は遺体の状況から診断するまでもないのですが、墜落による全身打撲でした。
遺体の腐乱状態がひどいので、親しい友人家族に見守られながら、9/19午前中に大町で火葬を行った後、大町市内の会場を借り簡単に発見状況の報告と併せた故人とのお別れ会をもち、その後遺骨は10ヶ月ぶりに原村の自宅に戻りました。
いろいろお世話になりました。本来であればお会いしてお礼を言わなければならないのですが、取り急ぎメールで失礼いたします。
それでは後日文書でまとめた報告を作成しお送りしたいと思っています。
どうもありがとうございました。
有持様の関連でお世話になった方にもご連絡のほど宜しくお願いします。

                    RCC神奈川 鈴・・・

 事故現場から発見された本人のカメラフィルムを現像したところ生前の姿を含む数枚が現れた、葉書サイズにプリントし偲ぶ遺品として奥様より送っていただいたのは四十五日の頃であった。

   当時51歳の池様、何時の間にか私も超えてしまった
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   北鎌尾根
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   此の影が最後の画像だと思う
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 小淵沢の駅で隣村を訪ねようか迷った挙句、結果足を運んだ。
 池様のログハウス居候は大昔で住所も電話番号も所持していない、感を頼りに村内を一時間以上巡ってみたが見つからない。
 仕方がないので東京に帰ろうかと、車に給油目的でガソリンスタンドに寄った。
 給油の待ち時間「このあたりに池様のお住まいって御存じですか?」と、何気にガソリンスタンドの主人に問合せたところ、1キロ程の道程を丁寧な地図を書いて下さり、その地図を片手に運転し3分で到着。

   昔は樹木も低く、家の外板の色も違っていたような気がします
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 先ほど何べんも行ったり来たりした場所であるが、大昔の記憶と一致せず気が付かなかったようだ。

・・・オシマイ

紅白山茶花咲いた 壇蜜咲いた

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 2本植えた山茶花の蕾たわわ、花の色が楽しみであった。
 蕾には大小があり、大きな物は小指の第一関節くらい小さい方は小指の爪ほどのが数えきれないほどである。
 その一方(右側)が先月初旬に咲きました。此れは既に記事で報告済みですが。
 緑褐色の蕾は咲く直前になると、ふっくら大きくなって白色化し先端に赤みを帯び、ハテ白い花か赤い花か気になっていたが、咲いてみれば白一色であった。
 繰り返すが、この山茶花は最初に咲いた山茶花である。

右が先月咲き始めた白山茶花・左が今月になって咲いた赤山茶花 
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 もう一方の山茶花にも無数の蕾があって、遅いぞ何時に成ったら咲くんじゃいと待っていたのであるが、それが一週間ほど家を留守にして戻ったら三つほど咲いている赤い花に嬉しくなっちゃった。
 内心は同じ植木だから花も同じ色なんだろと、万が一にも異なる色を楽しむを期待しつつも、そんな事はあり得ないと思っていたので徳した気分である。

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 蕾はまだまだ無数にありますから年内は楽しめるでしょう、さらに山茶花の隣にも椿が2本此方の蕾も待機中でござるよ。

 此方は倉庫に咲いたカレンダー・・・(笑)
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 なを、カレンダーのお花の賞味期限は今年いっぱいと決まっているようですね。 
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活字で解説は困難

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 舫われている第三●●丸(69トン)まだ誰も来ていません、私が一番乗りのようです。
 
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 先月の21日(月)5時から29日(火)16時まで、8日間・約200時間を寝起きしたタコツボ(部屋)で部屋は機関(エンジン)室の真横ですから音振動は勿論、夜間だけ主機(推進力エンジン)を停止して補機(発電用エンジン)に切り替えると音振動は低減するも機関室と住居区の気圧が逆転してオイルの揮発臭が強烈に漂ってくる。

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 その揮発臭を防ぐためガムテープで目止めしてあるのですが殆ど無意味ですね。

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 今回はキンメ延縄漁船の体験乗船の報です。
 体験とは申せ仕事ですからカメラを持って延縄漁の様子を撮影している暇はありません、これぞ延縄漁の画像は1枚もありませんので堪忍して下さい。
 延縄の投入から回収までのイロハや毎日の仕事を説明したくも良い画像も無く、たった一航海の経験だけでは無理ってもんですが大雑把に私の備忘メモとして記してみたいと思います。

 深夜1時のベルで起床する。皆が甲板に揃った頃に水深や延縄の長さやアンカー(錘)の重量等の延縄の仕様を示す放送が流れる。
 平均的な一例は延縄が約4キロ、延縄の両端には8~900メートルのロープで一方には浮と信号発信機で水面に、片方にはアンカ―(オモリ)を結んで海丘の底に沈められる、因みに此れを瀬縄と呼んでいる。
 延縄を構成するロープやアンカーがこの他にもあるのですが画像や絵も無く説明困難なので省略します。
 延縄の仕様を示す放送に従って手際よく整えて投入の合図を待つ。

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↑↑↑ 左舷に積載されたロープ 一籠が400メートル
↓↓↓ アンカー 30キロ)

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 右舷にはソフトボール位のオレンジ色の水中浮きがついた餌付き仕掛けが約800セット用意されていて(前日に皆で整える)延縄に凡そ10メートル間隔でこの仕掛けを装着するので800セットが1日分(延縄2セット分)である。
 
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 仕掛け枠は一本釣り漁法の仕掛けと同じだがハリ数は8~12本と少なく、船頭の合図で延縄を投入と同時に仕掛け(サガリ)を延縄に装着してゆく。
延縄を降ろす時のトラブルは禁物、総員で真剣に取り組む流れ作業だが、その様子をアアヤッテコウヤッテと活字ではとても説明出来ない。
 
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 延縄の投入が終わると朝飯だ。
 腹が満たされると再び眠りに付くが午前8時頃に今度は延縄を回収の合図のベルに目覚めされられてオモテ(船の前の作業場)に集合する。

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 下はそのオモテ(船の前の作業場)を紹介。
 多少の雨風をしのぐテントが張られ、足元には氷カメと獲った魚を保冷するカメや、消耗品などの雑多様々な収納スペースでもある。
カメの中に収納するにせよ中から何かを取り出すにせよ、出し入れとなると体ごとスッポリ入っての作業で大変だ。
 
 延縄の回収はオモテに設置されている緑色の油圧機を用いる、油圧機で巻上げるロープの荷重は1.5トンと絡まったりすると危険なので私は機械の後でキンメの口元から針を外したり、回収したロープやアンカーを所定の場所に運んだりしていた。
 この緑色の油圧機の他に二台の用途の異なる油圧機があり此の横では、人手の介入が必要な作業があり数人が機会の隣の船縁で此れに従事しているが、これもやっぱり活字で説明困難ね省略させて下さいな。
 
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 7日間の操業の漁獲情報は以下の通りでした。
  22日(火) 八丈島沖 0.22トン
  23日(水) 八丈島沖 0.24トン
  24日(木) 八丈島沖 0.25トン
  25日(金) スミス沖 0.12トン
  26日(土) 鳥島沖  1.25トン
  27日(日) 鳥島沖  1.22トン
  28日(月) 鳥島沖  0.38トン
 合計で約3.6トン、一キロ当たり売価1500円だと約5百万円だけど、いくらで売れたか知らん・・・、どれだけの経費を差っ引いて利益が生まれたのかも知らん。
 多少なりとも詳しい人に伺ったところ、倍の1,000万を売り上げないと利益は出ないらしいが・・・。

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 延縄の回収が終わると、獲れた魚をサイズ毎に仕訳し冷凍庫へ収納、更に明日の延縄の準備と、昼飯の菓子パンをかじり缶コーヒーで流し込みながらの作業が続く。
 遅くとも午後1時には全てを終えて温水シャワーで汗を流しビールを飲んでいる。
 午後3時にはもう晩飯だ、日替わりメニューだがおでん・キンメの天婦羅・カレーライス等々美味かったな。

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 飯を喰ったら一度部屋に籠り横になるが眠れないので何度も甲板に上がる、島が見えたのは八丈島の近くに居た24日までで、この日以降は携帯電話も通じないし島影も見えない、鳥島沖まで南下するとアホウドリが飛んでいた。 

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 28日に最後の操業を終え帰ることになった。
 約9ノットで30時間、29日の午後4時に帰港したが市場はもう閉っている。
 翌朝の6時に再集合と聞いて下船、知人のアパートに床を移した。

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 船を下りても体の揺れが止まらない・・・、話に聴いていた陸酔いである。
 別に気分が悪い訳ではないが、乗船中に船の揺れに合わ体のバランスを保とうとしていた筋肉が勝手に働いて止まらないのである、知人のアパートでTVを観ていてもトイレに入っても体が勝手に揺れて止まらないのよ。
 この陸酔いには48時間以上も苦しみましたよ・・・(笑)

 翌朝定刻に集合し市場の開場と共に水揚げを開始、魚を船から降ろしたら漁具備品や甲板を洗浄し一航海の終了である。
 貴重な体験乗船であったが、さて就業はどうしましょう。

下田市須崎から恒例の地金目よ・・・

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11月24日B丸で出船。
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石廊合わせでの初投入で大失態・・・、ラインがガイドに絡んで仕掛け下りずパス。
二投目以降からはボツボツで、最後にムツが現れた。
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11月25日寒気の到来と西風で大時化。
船の後方の水面は港の中で静かですが、神子元島のほうは真っ白けです。
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そんな訳で25~28日と陸に上がった第一J丸の船艇塗料剥がし手伝い、耳の穴も鼻の穴も真っ黒になったよ。
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11月29日やっと海静かになってH丸で出船。
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石廊合わせでの初投入に心身集中の甲斐実り10枚GETしたところで朝日が昇った。
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二投目以降は振るわず、タモ網の出番もなしよ。
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最終回(8回目)に竿先がコクン・コクンしている、何か(魚が)付いてる予感。
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間違い無くキンメだと期待を超えて確信していたのに、コイツでした・・・(笑)
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結局石廊合わせの10枚が全てで・・・。
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この日に偶然にも某釣り雑誌の正月号を飾る記事の取材で、立派なカメラを抱えた編集者が乗船していました。
発売前の雑誌ですから余計な事は申し上げるのは控えますが、某雑誌2016年1月1日号のカラーグラビアを源平が飾るかもしれんよ???
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此方が帰港後に某雑誌のカメラマンにお願いし撮ってもらったワンショットです。

昨今の私は乾燥肌が原因と思しき皮膚疾患で手や足といたるところがカサカサ、持ち帰ったキンメを台所で捌くたびに地金目の脂が身(手)に沁みる感じ・・・(笑)。

漁業就業支援フェア2015 

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 本日、全国漁業就業者確保育成センターなる法人が主催する 漁業就業支援フェア2015なる企てを見つけ行ってみたのよ。
 ひとめ楽しそうに 若い漁師さんが集まっているのは、フェアー開催のチラシ。
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 受付開始の10分前に参上したところ、来場者はまばらで閑散としていたが、定刻を過ぎるとみるみる騒がしくなり、漁業ガイダンス(漁業の入門的なお話し)を説明する会場に据えられた200席近い椅子の全ては埋まった。

 20分程の漁業ガイダンスをチョイと記してみるが
 海域による三種
運岸漁業・・・陸に近い沿岸部での漁 基本日帰り
沖合漁業・・・日本の200海里水域 日帰りから一ヶ月と幅がある
遠洋漁業・・・大型船で南太平洋や大西洋へと おおむね50日から1年にも及ぶ
 様々な漁方
定置網漁 まき網漁 底引き網漁 釣り漁 養殖業 刺網漁 沿岸イカ釣り漁 採貝採藻 タコつぼ漁 延縄漁
 と、漁業も様々あるのよ・・・、ってなお話しである。 

「漁師さんは海の幸を勝手に捕まえてドロボーと同じだよな、でも養殖業だけは別格かな、手間暇かけて育てるところは農家と似ていて偉くない・・・???」と、常々感じたのはこの日も同じ・・・。

 初歩的な知識をガイダンス説明会場で伺ったあと、就業者を募る漁協・水産法人・個人船主など、50以上もの団体が机を構えた隣の会場に移動、就業希望者は所望する出展団体に赴いて具体的な情報を伺う。
 双方の条件が一致しちゃうとウィンウィンで雇用決定、お手を拝借一本締「よ~お!」「パンパンパン パンパンパン パンパンパン パン」ってなっちゃうのね。
 (↓↓↓は、受付直後の閑散なガイダンス会場)
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 漁業に赴きたい方々って意外と大勢いらっしゃるのねって、感心しながら後ろを振り返ると、家族連れや若い女性まで混ざっていて驚いたわぁ・・・。
 本当に就業を望んでいるのかしら、入場に制約はないので単に漁業産業の情報を求めての来場かもしれないと思ったが、椅子に座って真剣に話をしている様子から前者かもしれない。
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 事前の情報から、私が所望す漁業・漁方は関東近県で求人が無い事を得ていたが、情報収集としてプラプラと足を運んだ次第なんですよ・・・。
 とは申せど「四国・九州、或いは八丈島まで行っちゃおうか???」的な気分も少々ある。
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 プラプラしていたら長崎県は壱岐で海女を募集する漁協のポスターに目がとまった。
 NHK朝ドラ あまちゃんの能年玲奈かと思ったが、別人だったよ・・・最近視力が衰えたみたい。

皆様良いお年を & 来年もヨロピンコ!

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 暖冬と申せどやっぱり冬は寒いもの、この冷え込みが原因か解らんが記事パコパコをチョイと御無沙汰しておりました。
 デジカメの画像整理を兼ねて久々のブログアップをと始めたら、妻がTVチャンネルをNHKに切り替えた。
 紅白が、郷ひろみの2億4千万の瞳で始まった。

 今年一番旨かったもの~~~! 農林48号

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 農林48号とは・・・
 戦後まもない昭和24年に農業試験機関で育成されたお米、開発当時は多収で食味がよいことから富山・栃木・山梨などで奨励品種となった。
 だが出穂期が遅くイモチ病に弱い事などから評判が落ち姿を消し、山梨でも昭和36年に奨励品種から除外された。
 しかし、武川村内では農家約120戸が約50ヘクタールの田で栽培が続けられ収穫されていた。
 技術進歩により栽培しやすくなったものの、未熟米や割れ米が多く評価は低く冷害に極端に弱い品種であることも災いし、武川村内で縁故米としての消費で、市場に出回ることは無かった。
 また、国の減反政策により栽培面積も毎年減少、種もみ自体も少なく「幻の米」といわれ、山梨県内でもこの農林48号を知っている米屋は殆どいなかった。

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 こんなであったが、数年前から状況は一変、縁故米として少量流通していた農林48号に都内の高級寿司店が食味の良さと香ばしさに注目。
 この高級寿司店がテレビ取材を受けて農林48号が知られるようになり徐々に市場評価が上がる。
 この秋(10月)に山梨を訪ねたおり偶々一袋(1キロ)を求めて味わった。
 以上が農林48号のノウガキであるが、食べた後に調べた次第である。
 本当に美味かったよ~~~!

 紅白は、徳永英明 時代(中島みゆきの曲のカバーだよね)

 或る日セブンイレブンで。
 ここに申し込んで運が良ければ山下達郎のライブチケットが入手出来るのだ・・・と、デジカメでメモしたが其れっきり申し込みせず。
 達郎のライブに永遠に行けそうもないね。

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 NHKの 紅白は、踊るポンポコリン・・・ 

 運動不足回避のため可能な限り近所を散歩しているが、あのオジサン何時もの徘徊と思われるのが気がかりと、徒歩だとフィールドにも制約が飽きてくるもんだ。
 そのような理由で行動範囲を広げたく自転車を入手、荒川を渡って右岸(江東区側)のを走る日も多い、そんな或る日左岸の向こうに煙モクモク。
 ひょっとして我家じゃないかと疑ったが、すぐにじゃないと悟って安堵であった。
 12月18日の千葉県船橋市の廃材置き場から午前4時に出火、午後になっても鎮火せず天高く煙モクモク。
 
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 NHKの 紅白は、星野源 SUN
 
 水産業への転業は頓挫している。
 漁師なら何でもエエって訳ではなく、一応こだわりがあるもんで。
 望まない仕事に赴くつもりもないが、かといってそれで済まされる訳でもなし・・・。
 こんな事もあろうあと、目星をつけていたのは港湾河川の土木工事の操船アルバイト、手始めは工事現場の警戒艇から・・・、ナカナカいいね! いずれはタグボートも操船してみたいね。
 一年振りの仕事は隅田川の船の上です。

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 NHKの 紅白は、藤あや子 まんじゅしゃか

 24日年内最後の仕事を終えて帰宅すると雇用主からメール「明日から年末まで空いてるか?仕事できるか?至急連絡ちょうだいな」である。
 23日に江戸川区臨海町の首都高中央環状線で大型トレーラーが側壁に衝突、木材が入った積み荷のコンテナが下を流れる荒川に落下、もちろん首都高は通行止め・・・なんて事故ありました。
 この落下したコンテナを年内に収容する作業クレーンバージ(艀)の警戒業務だなと察知。
 雇用主に連絡してみると察知した通り、でも既に人手は足りたよう。
 
 これがネットからコピーした画像の事故現場です。

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 翌々日に自転車を転がして見に行ったら、寒いのにダイバーが潜っています。 

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 バージ(艀)の上には、回収されたばかりの拉げたコンテナが二つ。

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 NHKの 紅白は、あさが来た

 自転車でチャリチャリが日課となって今年最後は何処まで行こうかと・・・、江東区の若洲海浜公園へ走ってみた。
 ここへは20年位前に黒鯛釣で通った以来です。ゲートブリッジはまだ架っていなかったな。

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 若洲海浜公園の東側の一画で若者がシャボン玉遊び、楽しそうでいいな~~。

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 シャボン玉に見惚れて、何度もシャッターを押してしまった。

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 NHKの 紅白は、いきものがかり ありがとう

 そんじゃ皆様良いお年を & 来年もヨロピンコ!

 NHKの 紅白は、花は咲く

2016年 明けましておめでとうございます。

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昨年末からアルバイト始めました。

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現場は良いお天気です。

Kアニイを偲んで

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 ○○K○船長(以後 Kアニイ)の生前には、とても世話になった。
 ご遺族に追悼をあらわし、Kアニイを偲びながら哀悼を捧げたく想い出を綴ってみたが、自身の素性を明かしていない私が、故人の実名や画像をどこまで公にしてよろしいものか・・・、もうこの世にいない本人に承諾を取り付ける事は出来ない。
 私なりの弔慰表現として伏せることなく記(掲載)させていただくつもりであったがしかし、もし本人に「ブログ実名で公表良いか?」と問うたならば、間違いなく「やめとけ馬鹿野郎!」と云われるだろう。
 生前の画像を眺めていると甦ってくる肉声や想い出が尽きず、それら思い浮かぶ様々を延々と掲載してみたものの「いい加減にしろ」と怒られそうで、せっかくパコパコと綴った想い出話の90%を削除して実名も公表せず、在りし日の姿(画像)に一言二言のコメントを添えて偲ばせていただきたい。

 今月の11日に神奈川の知人宅を発って深夜に下田入りした。
 昨年の夏頃より病を患って療養中である某漁師の見舞いも兼ねての下田入りで「新年早々具合が悪くなり入院しているらしいよ」の情報は得ていたが、あえて確認せず漁村へと走った。
 もし事実で留守であれば、帰りは村から80キロの病院に寄って見舞うつもりで。
 1月12日の早朝、漁村の隣村で目覚めると「Kアニイが数時間前に逝ってしまった・・・」の報せが入る。
 午前中に80キロ離れた病院から長女に伴われて戻ってきた。
 喪中の飾り布が吊るされた玄関が村内の御親戚や御縁者の弔問で混雑しているので、私は暫らく待って人足が収まった頃合いを計らい玄関の中へと入った。
 居間の隣部屋で、私が何時も床を借りる時に布団を敷く畳の上でKアニイは守り刀を握り目を閉じて動かない。
 お焼香を焚いて手を合わせてみたものの、弔うとか冥福を祈るとかそんな心境にはなれなかったのは、予期せずあまりにも急な事だったからだろう。
 数時間前までモルヒネでこらえながら苦痛と抗っていたであろう表情はなく、安らかに閉じた目蓋が開く事は無く、私に向けて言葉を発してすらくれず、無念が漂うばかり。
 14・15日がお通夜告別式と伺い、一旦東京に帰って仕度をして出直す事にした。

 ( 2016/1/14・15 お通夜 告別式 遺影 )
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 ( 2016/1/14・15 お通夜 告別式 遺影 )
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 告別式を終えて帰路、先程荼毘にふし御骨も拾ったばかりなのに「携帯に電話したらヒョットシテ応答があるかも・・・」とピポパしてみたが、着信音だけで応答はない。
 「旅立ったばかりだろう・・・、まだそんなに遠くへ行ってないだろ電話ぐらい出ろよ・・・」
 生前には私が電話して応答がなく呼出を止めた時でも、数分後には折返しの電話が鳴って「今○×△※・・・で忙しくて出られなかったゴメン」的な折返しも早かったが、それすら敵わない遠い処へ旅立ってしまったようだ。

 ( 2009/10 キンメ漁の帰りに鰹を狙った。2本くらい獲ったっけ?)
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 ( 2009/10 キンメ漁の帰りに鰹を狙った。鳥山探してたね。)
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 Kアニイの画像は当ブログを始めた頃からで、ここ数年のものばかりである。
 デジタル画像の健在なKアニイを眺めては、灰色の空気に包まれてモヤモヤな数日を過ごしていたが、つい先日は「冥途の番地を知らせておくれ、スーパードライもカツオの叩きも枝豆も宅配で送ってあげるよ・・・」と、他愛のない独り言を発している。
 あれから三週間が過ぎても一向に折返しの電話が鳴る事は無いね、それゆえかKアニイの死を現実として受け入れられるようになってきたよ。

 ( 2012/2 弟さんの船で釣っていると、よく近寄ってきましたねぇ~~~(笑) )
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 最後にお会いしたのは昨年の11月の末だった、いつものように鍵の掛っていない玄関から勝手に上がって居間に足を運ぶと、横たわるKアニイは私の顔を見るなり「おぉ~~~」と微笑んだ、病と抗癌剤の副作用の双方であろう表情が辛そう。
 私は居間の入り口で立ったまま「顔を見に寄ったよ・頑張って」「また遊びに来るから・来年も宜しく」と、一言二言を告げると、目と頬で笑って再び「おぉ~~~」と声を発してくれた。
 長居は失礼と察したので一分間と滞在もせず、居間の戸を閉めて宅を後にした。
 あれが最後の会話になってしまうとは、出来るだけ体に負担を強いる事無く療養に専念してもらわねば・・・、早く治って欲しいとの気持ちから長居しなかったのだが、今となっては隣に座ってもう少し由無し事をお話ししながら時間を過ごしたかった。

 ( 2013/5 漁から戻ってから明日の支度 )
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 ( 2013/5 明日の支度の餌さ切り終えたら、私の酒の肴切り )
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 ( 2013/5 これでもかってくらい沢山の亀の手 旨かったぁな~ )
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 故人の所へ通うようになったのは彼是20年、最初はK船長の弟様が腰痛で療養のおりピンチヒッターを引受けてくれたのが兄様、ゆえに呼称がKアニイなのである。

 ( 2014/7 カジキ釣り大会の前夜祭だね )
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 ピンチヒッターのKアニイの船で新島へ五目釣りへと、照る陽射しに熱る肌を冷やす風の心地よさを覚えているからから、季節は五月のゴールデンウィークか梅雨明けの初夏だったと思う、船長もトモ(艫)で操船をこなしながら竿を出し、更に冷凍サンマを切り分けては、切ったサンマが入ったバケツを手に掲げて「オーイ餌を取に来い」と、船のオモテ(舳)に座した私に向け大声で叫んでくれた。
 そのサンマの切り身を餌に大鯛を釣らせてもらった。

 ( 2015/5 磯物獲りに連れてってくれたね、私は陸から見てるだけだったけど・・・ )
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 ( 2015/5 茹でたてのガジ(ウニ)だけど、食べるところが少なかったよぉ~ )
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 想い出の画像であるがどれも隠し撮るように撮影したものばかりだから、いずれもソッポばかりで、告別式会場に掲げられた遺影のような正面から捉えたものは一枚も無い。
 それらどれもが、今にもこっちを振り返って何か言葉を発しそうな感じがするのは私の思い込みに過ぎないと解っていても期待してしまう。

 昨年の8月初旬に熱帯夜の東京を脱して夏祭りの須崎へ伺った時に、玄関の戸が珍しく施錠されていた。
しばらくすると姪が運転する車が玄関前に停り「呼吸が苦しくて・・・」と辛そうにKアニイが降りてきた。
 息苦しくて病院へ、そこで肺癌の疑いあり、県立の専門病院で再検査を促されて帰って来たのであった。

 同年同月下旬、入院している長泉町の県立癌センターを見舞った時には、抗癌剤治療が辛いけれども元気になったら、ウナギの蒲焼き食べに行こうね・・・またキンメ釣りに連れて行っておくれ・・・と交わした。
 この時にはまだ、本人も私も周りの人間も克服して元気な姿に戻る心積りだったのが、余りに無念だ。

 実名は掲げなくとも、これだけの画像を掲げれば解っちゃうよと指摘があるも知れないが、そのほうがKアニイも喜んでくれるだろう。

 ( 書の作家も昨年に没しているが故人とは繋がりがあったようで、これら読み物の中で実名やモデルとしてKアニイが現る、Kアニイの口癖はテレビも小説も嘘が九割で事実は一割だったっけな・・・、Kアニイに会いたくなったら再び本を開いてみるよ。 )
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 Kアニイの船は甥っ子が継承したそうだから、暖かくなったら仲間と「Kアニイを偲んでキンメ釣大会」チャーターするからね。

止める口実を失った・・・

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 年末から商売を始めて、お遊びどころではなかった。
 その新たな商売が軌道に乗った訳ではないが、発注が途絶えたところで一服したくなったので、サントリー缶酎ハイのコマッチャンをお誘いし本日外房のヒラメを狙ったのよ。

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 ヒラメの2枚や3枚は簡単と高を括っていたがしかし、道具(釣竿)に沙汰もないまま時間が過ぎゆき、心中は「もしも今日釣れなかったらば釣なんて止めちゃおうかしら・・・」と彷徨っていた。

 最後の釣りが昨年10月と11月であるから半年近くも竿を握らずにいたから、釣り方を忘れてしまったと思うくらい触りも当りも無い。
 そして「遊び道具を処分して縁を切るまではせずとも、暫らく距離を置く絶好の口実になるまいか・・・」の意に至ったのである。

 冷たい雨が止むこと無く定刻迫り最後の一流しにゴツゴツゴツ・・・、折角の口実を失ってしもうたゎ~~~!

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 仲良く1枚づつ

これで春の嵐も台風もウェルカムよ

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 小名木川には多くの小型船舶が係留されてあり、その中の一握りを除いては違法係留とか不法係留と云われるもの、私もその類であった。

 違法とか不法とかであっても罰せられる事はないのだが、潮の満ち干や増水強風など変化する自然現象に手を煩わせられる、係留場所の近くに駐車場はなく、メインテナンスに必要な電気や水道も当然無い、更に遊歩道から投げ捨てられたビールの空き缶やゴミ袋が舷内に転がっているのは日常茶飯事である。
 今年の一月に船を入手してみたものの違法不法係留の洗礼を幾度も経験し、利便性の良いマリーナへ移そうと発起したのよ。

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 小名木川護岸の際は干潮時に矢板が現れるが、この矢板に船艇が触れれば船は一発で沈んでしまうであろう。
矢板に沿って単管を打ち、脇に浮かべた和船を桟橋代わりに係留するが、風向きや航行する船の引き波でも船は暴れる。
一月の小雪が降った時に和船のスカッパーの目詰まりで沈んでしまわないだろうかと、二月の春一番の時は勿論、何は無くとも毎日のように点検に通っていたがそれも今日で最後である。

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 船の引っ越しルートはこんな感じです。

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 小名木川の西の隅田川に合流する付近には小規模ながら桜並木が、桜色の蕾は開花間近、咲誇るはあと一週間位かな。
 満開を楽しむ前に小名木とサヨナラはちょいと心残りね。

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 隅田川を下ると現れる永代橋をくぐって豊洲運河へ。

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 その次が相生橋ね。

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 黄色いマストは海洋大学の明治丸。

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 その先を更に進むと、何とかって高校???

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 ズンズン進んで辰巳水門まで来ました。
 この辺りの水路は狭くって、そんでもっていきなり2メートルとか浅くなったり、水門の向こうから急に船が現れたらどうしようどうしよう、冷や冷やでしたね。
 そんな水路と誰もが知っているようで、抜けるのは和船と私くらいでしょうか、安全第一です次回から此処を通過するの止~めた!

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 辰巳水門を過ぎれば安心ですわ、水深も10メートル近くあって多少のよそ見もOKです。
 向こうに見えるゲートブリッジを目指しトコトコトコトコ・・。・

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 ゲートブリッジをくぐると一瞬だけ青空が広がった。
 ビール飲みたいけど如何して用意してないんじゃい!(笑)

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 あとは三枚洲を遠巻きにしながら、イース イース ( 東へ東へ )

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 左手に ↑↑↑葛西臨海公園の観覧車 ↓↓↓東京ディズニーリゾートと順番に通過。

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 無事到着
 なんかスンゲェ機械だぁって、感心。

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 尚、維持費はまだまだ掛る予定ですが、とりあえず嵐と台風はウェルカムよ・・・。

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 凡そ19キロ( 約10海里 )を所用時間2時間30分で計算すると4ノットですが、云える事は私も暇なのね。 

三葉躑躅が咲いたよ

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 「桜シーズン到来」とか「各地で桜満開」等、話題は「桜」の季節になった、我家の庭には植えられていないので、桜は近所の公園に愛でに行くことにする。

 我家の陽の当らない庭では昨年植えた三葉躑躅が咲いた、期待していた花の色は桃色や紫色でなく白であった。
 紫色は、隣に植えたオオムラサキツツジが咲くのを待つとしよう。

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 此れも接写の三葉躑躅、眺めながらふと思ったのだが葉っぱが無い、三葉の由来の通りならば葉が三枚でどんな形であろうと想像を巡らせているが今は謎である。
 調べてみたが葉は開花後か開花途中出るそうなので、謎が解けるのももうすぐです。

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 此方は三葉躑躅の隣の、オオムラサキ躑躅だ。
 葉は繁っているが花はまだ、蕾が二つあるのでもうすぐ紫色の大きな花を期待しています。

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 さらにオオムラサキ躑躅の隣りの日影躑躅とシャクナゲ(西洋躑躅)にも期待しているが、まだ蕾らしきは現れていない。

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 もし咲かなかったら、引っこ抜いてあげましょうか。(笑)

「蒔いた種はすぐには芽が出ない・・・」を支えに考えたが

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 ボートの係留を違法係留地から某マリーナに移したのは先月末だ。
 ボートを用いた商売(警戒船)の繁忙期を締め括る最終日の3月15日に隅田川の現場から小名木川の違法係留地へと帰る時ドライブから異音が発し、オイルを点検すると乳液化(水の混入)が確認できた。
 今年一月に入手した船は勿論中古船で、当分の維持費として購入した額と同額程度を整備また修理費として予算を組んでいたので、マリーナに陸揚げして派手に修理しても、予算で十分足るであろうたかを括っていたのは大誤りであったと、数日後に知る事となった。

 具体的な船の不具合と、対処が必要な整備を此処で掲げても専門的なので記すは止めるが、修理に関しては安いと評判の業者で見積もったが私の予算の倍以上になってしまうのである。

 倉庫の暦の「蒔いた種はすぐには芽が出ない 努力が実るには時間がかかる」の言葉を支えに、更にへそくりを投入すべきか悩むこと一週間。
 私には商売人としての質素なしと、撤退を決めた。

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 船を陸揚げするとドライブのフジツボや船艇の汚れが目立ち、翌日に高圧洗浄機をあてると面白いように汚れが取れるので、つい調子にのってやりすぎてしまったようだ。
 厚く古い船艇塗料が部分的にボロボロと剥がれて、結果全て剥離してもう一度塗り直さなければならなくなってしまった。
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 何層にも塗り重ねられた厚く固い船艇塗料を、ここまで剥離するのに一週間。
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 修理が終わって綺麗になったドライブだが、今後の維持の手間を思うと嫌になってくる。
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 船艇の再塗装を終えて、エンジンのターボも交換したから最低でも25ノットは走るかな。
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いよいよ明日スクリューを装着して久し振りに海に浮べる予定だ。
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 少し損はしたが、無難な値段で買い取ってくれる御仁が現れたので、明日が引き渡しである。
 手放す事になりました・・・。

55歳の再就職

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 健康保険証の交付日付は先月13日だから、丁度ひと月経った訳だ。
 販売でも製造業でもなく、どちらかと云えばサービス業に近いと感じているが、その実態はハテ? イメージ 4
 本日は予報通りの雨、合羽を身にまとって船を出したところで作業中止の知らせが入った。
 先月から続いている仕事は、東京港第二航路に臨海道路南北線http://www.pa.ktr.mlit.go.jp/tokyo/information/20140619nannbokusen.pdf#search='%E5%8D%97%E5%8C%97%E7%B7%9A%E6%B2%88%E5%9F%8B%E5%87%BD'を通じる沈埋函(トンネル)を設置工事の序段階で、毎日潜水夫が磁気探査とやら海底に例えば不発弾などが潜んでいるまいかと捜索しているのですが、雨足も北風も強い今日は当然中止です。
 遠回しになったが、このような港湾土木現場の周辺水域の他の船舶が侵入しないよう警戒が私のお仕事で、一般的に「警戒船」と申します。 イメージ 1
  この仕事ですが、暇なようで結構暇なんよ・・・(笑)
 だからといって気を抜いたり手抜きしたりはいたしませんよ、確りと周辺水域を見張って警戒にあたっています。
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 やっぱりお天気の宜しい日は気持ちええです。
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 暫らくご無沙汰しておりましたが、こんなお仕事をしておりますよってな次第でやんす。

7月3日のテレビ東京「池上彰の選挙へ行こう!」観てくだしゃい

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監督が「ちんちんはみだしてるんじゃね~よ 爆! キタネエのが映っちゃってるじゃん 爆! こんなの放映出来ねぇ~だろ・・・、褌縛り直してもう一度撮り直しだ。」


30数人の裸男が投票所に駆け込むシーンで、このような事情により数回撮り直しいたしましたが、最後の撮影は下半身カット(カメラを上半身に向けて撮影)で終えた次第。
 
事の発端ですが、先日K氏から『褌で泳ぐエキストラ』なんだけどお願いしたいときたもので、平日は無理だよと応じれば日曜日だから是非、募ったエキストラの頭数は既に達しているのだが海水温が20度の中を褌一枚だから、エキストラが複数ダウンの時のピンチヒッター的な人員も考慮して多ければ多い程よろしいとかで、昨日の(26日)日曜日に半ば無理やり連れ出されたのであった。
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早起きしJR田町駅で待ち合わせ、そこでワンボックスカーに乗車した。
漁村へ走るワンボックス車中でA4サイズ10ページ程の台本を手渡された、表紙には『テレビ東京「池上彰の選挙へ行こう!」再現ドラマ「PROJECT裸・漢(ラカン)」とあり、これは「選挙に投票するため極寒の海を泳いで渡った漁師たち」を意味しているようだ。
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参議院一週間前のスペシャル番組で7月3日の放送のか???
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台本の表紙を捲るとセリフとナレーションに絵コンテが、放映前なのでロケ地や台本など詳細の公開は控えるが番組の宣伝を兼ね少し明かすと、日本で1925年25歳以上の成人男性に与えられた選挙権と、それに基づく最初の総選挙が1928年の第16回衆議院選、この時に高知県の投票所に裸で乗り込んでくる総勢50人程の男達(漁師)がいた・・・、この珍事の再現ドラマなんだとさ。
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当日集まったエキストラ方々だが、皆誰もがどこかの芸能事務所に所属しているらしい、要は誰もが将来の売っ子芸人を目指しているのであろう。
そんな中で私がでしゃばるのも失礼と、常にカメラから一番遠くの最後尾で駆け回っていましたので、ちゃんとテレビに映るかな?
 
 さて今回の選挙(10日の参議院選)には褌にしようかな・・・でも誰に一票を投じようかまだ決まっていない。

2017年(平成29年)ブログ初め

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 昨年夏を最後にブログアップから遠ざかっていたが、それは特別理由があった訳じゃないのよ。

 一昨年末に経験した警戒船のアルバイト、昨年の春より同業で社会保険(健康保険や年金)完備で面倒を見てくれる会社を見つけてそこで世話になっている。

 警戒船とは、港湾土木工事(運河や航路維持のための浚渫や護岸工事・橋梁の修理)の領域に他船舶が侵入しないよう水上や海上に配備した船舶に乗船してその名の通りの仕事です・・・。

 警戒船の呼称からは如何にも堅そうな感じを覚えるが、仕事の実態は意外と適当で誰でも務まるような気がする。

 今後永続的にこの仕事を続けるのかまだ解らないが、とりあえず操船や簡単な船舶メインテナンスは熟せるようになりたいとの思いから選択した仕事で、これから先の事は何とも云えない。

 ブログの記事掲載は私にとって日記のようなものであるから、記事掲載から遠のいていた期間に経験した現場について触れ記事をアップしてみようかと思った事も何度かあったが、思いだけで至っていないのは何でなんだろう。

 そんな現場をちょこっとだけ紹介すると、一つは小池都知事により是非を問われた東京オリンピックカヌー競技場(海の森水上競技場)https://www.2020games.metro.tokyo.jp/taikaijyunbi/taikai/kaijyou/kaijyou_14/index.html

 空白の期間については此れくらいにして、1月2日に家族が揃った話し。
 弟夫婦は和服に興があり、私たちに正月らしい装いをさせてくれると、ご覧の様な着付けを施してくれたのである。
左から弟・弟の嫁・母・私の嫁
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 弟嫁に着付けていただいた私の嫁は御満悦、とても喜んでいた。
左から私・嫁
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記念写真をすませて亀戸まで初詣に出かけた。
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 順番を待つ行列に並び30分、賽銭箱に150円を投じて、ある願いを奉じたのでございます。
 この直後に退路から覗いた賽銭箱にお札を発見、150円ポッチじゃ今年も駄目かな。

ヒビアカギレ

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一年前(昨年の冬)両手の人差し指と親指の爪の横が割れた、ヒビアカギレだ。
皮膚角質の厚い部分が冬の乾燥で伸縮性を失って割れてしまう。
割れた皮膚に保護クリームを塗り込むと少し良くなるが、一旦割れた皮膚はちょっとした手仕事が切欠で再び傷口を広げる。
傷口は治りかけては再び開くを繰り返し、痛みを伴う不愉快な冬が続いた。

春が訪れ・・・、夏が訪れ・・・、傷は塞がった。

再び不愉快な冬を過ごしたくないと、秋から入念なケアを施したので人差し指と親指いまのところ快適だ。

だが・・・・

左手は人差し指と中指が・・・
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右手は中指と薬指が・・・
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今年の冬、これらの指の先端にヒビアカギレが出現だ。

両手の画像は風呂上りに保護クリームを塗ったところで、痛々しさは見えないと思うが、毎日必ずどこかの傷口が開く、先日は車の鍵をドアに差し込んだその瞬間、静電気がバッチと指先を直撃、傷口から血が滲んだ。

パソコンのキーボードを叩くのも辛く、無理するとキーが血だらけになりそうなので、もう暫らくブログ休むでござるよ・・・。


映画「沈黙」を観た

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鉄砲と同時に伝来した文化(宗教)がある。
その頃、神や仏(神社仏閣)も大名や名主と結び戦や商いに傾倒、信仰・祈り・救いといった概念から逸脱し、戦国の荒廃で経済貧困な最下層の人々が大勢であった。
異国の宗教は織田信長により布教が保護された事と相まって、「信じる者は誰でも天国に行ける」の教えは、救いであり甘美であり瞬く間に浸透した。
キリスト教にも宗派があり布教競争がある、代表的な宗派はカトリックとプロテスタントで最大宗派はカトリック、ローマ教会とカトリックは基本的に同じ。
鉄砲とともに流入したキリスト教はカトリックで、布教を務めたのはポルトガル支所のイエズス会の修道士であった。(イエズス会 = 男子修道会
当時西洋でプロテスタントに押され気味であったカトリックに、そのローマ教会にもたさされた「遠い異国の地で宗徒の拡大・・・(布教に成功した・・・)」の報せに、涙を流し喜んだとか。

信長が没し、秀吉によりバテレン追放令が発せられその秀吉も没した。
太閤秀吉から徳川幕府の時代に代わっても踏襲されバテレン追放対策は続いた・・・。
 
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その頃、ローマのイエズス会に「日本の信者は弾圧を受け布教活動は壊滅的、赴いていた多くのパードレ(司祭・お坊さん)は日本を脱し、隠れ残り布教に務めた者は捉えられて棄教(裏切って)、行方も不明である。」の知らせが届くところから「沈黙」の物語は始まる。
 
記憶と小説を読みながらあらすじを書こうと思ったが私には無理、皆様に満足かつ適切に理解していただくためには、コピペが良しとウィキペディアから以下。
 
島原の乱が収束して間もないころ、イエズス会の高名な神学者であるクリストヴァン・フェレイラが、布教に赴いた日本での苛酷な弾圧に屈して、棄教したという報せがローマにもたらされた。フェレイラの弟子セバスチャン・ロドリゴとフランシス・ガルペは日本に潜入すべくマカオに立寄り、そこで軟弱な日本人キチジローと出会う。キチジローの案内で五島列島に潜入したロドリゴは隠れキリシタンたちに歓迎されるが、やがて長崎奉行所に追われる身となる。幕府に処刑され、殉教する信者たちを前に、ガルペは思わず彼らの元に駆け寄って命を落とす。ロドリゴはひたすら神の奇跡と勝利を祈るが、神は「沈黙」を通すのみであった。逃亡するロドリゴはやがてキチジローの裏切りで密告され、捕らえられる。連行されるロドリゴの行列を、泣きながら必死で追いかけるキチジローの姿がそこにあった。
長崎奉行所でロドリゴは棄教した師のフェレイラと出会い、さらにかつては自身も信者であった長崎奉行の井上筑後守との対話を通じて、日本人にとって果たしてキリスト教は意味を持つのかという命題を突きつけられる。奉行所の門前では、キチジローが何度も何度もロドリゴに会わせて欲しいと泣き叫んでは、追い返されている。ロドリゴはその彼に軽蔑しか感じない。
神の栄光に満ちた殉教を期待して牢につながれたロドリゴに夜半、フェレイラが語りかける。その説得を拒絶するロドリゴは、彼を悩ませていた遠くから響く鼾(いびき)のような音を止めてくれと叫ぶ。その言葉に驚いたフェレイラは、その声が鼾なぞではなく、拷問されている信者の声であること、その信者たちはすでに棄教を誓っているのに、ロドリゴが棄教しない限り許されないことを告げる。自分の信仰を守るのか、自らの棄教という犠牲によって、イエスの教えに従い苦しむ人々を救うべきなのか、究極のジレンマを突きつけられたロドリゴは、フェレイラが棄教したのも同じ理由であったことを知るに及んで、ついに踏絵を踏むことを受け入れる。
夜明けに、ロドリゴは奉行所の中庭で踏絵を踏むことになる。すり減った銅板に刻まれた「神」の顔に近づけた彼の足を襲う激しい痛み。そのとき踏絵のなかのイエスが「踏むがいい。お前の足の痛さをこの私が一番よく知っている。踏むがいい。私はお前たちに踏まれるため、この世に生れ、お前たちの痛さを分つため十字架を背負ったのだ。」と語りかける。
こうして踏絵を踏み、敗北に打ちひしがれたロドリゴを、裏切ったキチジローが許しを求めて訪ねる。イエスは再び、今度はキチジローの顔を通してロドリゴに語りかける。「私は沈黙していたのではない。お前たちと共に苦しんでいたのだ」「弱いものが強いものよりも苦しまなかったと、誰が言えるのか?」
踏絵を踏むことで初めて自分の信じる神の教えの意味を理解したロドリゴは、自分が今でもこの国で最後に残ったキリシタン司祭であることを自覚する。

映画を観たのは、先月の土曜日(1月28日)で、更にその数日前に原作の文庫を手にして仕事の合間に読んでおいた。
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鑑賞の前に原作小説を読むなんて「ネタバレニナッチマウ・・・無為だ」と指摘されそうだが、かつて中身の濃い洋画を字幕で観た折にチンプンカンプンに陥った事もあり、保険を掛けたつもり。
日本橋コレド室町の映画館に入場、事前予習が必要なほど難解なこともなく、かと云ってネタバレである事が残念に転じる事も無く、素直に解釈して楽しむことが出来たつもりであったが、終わって映画館の外に出てみれば残忍なシーンばかりが印象に残って、想い出しては歯を噛みしめていた。
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数日が過ぎこれが薄れた頃になって、物語の中でキリスト教禁止令に始まり過酷な弾圧が生まれたかについて、殆ど触れていない事に疑問を感じた。
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婉曲的ではあるが、これについて触れていると思われるところが、捕らえられたロドリゴに棄教を促すバテレン取締奉行の井上筑後守と以下の対話。
井上
平戸の松浦隆信公には四人の側室がおられたが、この側室たちが、たがいに妬みあい、争いがたえぬ。隆信公、遂にこらえかねて四人が四人とも城より追放され給うた。いや、生涯、不犯のパードレ(司祭・ロドリゴ)にはこのような話は禁物であったな。
 
ロド
その殿様は大層賢いことをなさいました。
 
井上
本気で、そう思われるかな。それで安心した。平戸は、いや、我が日本は、ちょうど、この松浦殿のようなものだ。
エスパニヤ、ホルトガル、オランダ、エゲレスとそれぞれ名のる女たちが日本と申す男の耳に、夜伽のたび、たがいの悪口を吹き込み申してな・・・

弾圧の背景を婉曲的にと云うよりは暗い映画を少しでも面白くと、井上筑後守を務めた俳優イッセー尾形の演じ処(楽しませところ)のようであった。
 
遠藤周作を探ってみると、カトリックの洗礼を受けておりどうやらこれかな。
弾圧に至った背景こそどうであれ、信者として大航海時代を背景にヨーロッパとアジアの政治的な観点にあまり捕らわれず、キリスト教(神)を文学として表現したかったのではないかと感じたのは、以下の情報を発見してからだ。
 
『沈黙』は出版後、長崎教区にて発禁になるなど教会から反発を受け、ある神父は遠藤が『沈黙』の中の踏絵の場面を正当化したとして、下記のような反論を述べたそうだ。
イエズスが「正義のためにしいたげられる人は幸せ」という自分の信念をすてて、ただこの弱いあわれな人々の今のしあわせを考えたならば遠藤氏のいうようなことになっただろう。(中略)日々、人間として信仰者として、われわれは、いろいろな意味でのふみ絵の前に立たされている。キリストと、キリストの国と、キリストの愛をえらぶか、それとも、あなた自身の傲慢と、利益と邪欲とのいずえをえらぶかが、日々ためされている。
この場合、よわい人間としてえらびやすい方をえらんでもよいなら、そしてどうせキリストは弱いもののためにきたのだから、それをあてにして行動するならキリストが、”天にまします父のように完全であれ”という言葉も空しくなる。こうなれば、キリストは、「人類が歩くべき気高い道の旗印」とはならず、「人間の弱さ、卑劣さの使徒となり、人間の中にある最も聖なるもの崇高なものの最大の裏切者」となるほかない。キリストが「人類の気高いものの旗印」となったのは、かれが生命をかけて正義と愛と真理を守り通したからである。
此れに対して遠藤は以下の発信した。
それには考えられる理由が当然ある。棄教者は基督教教会にとっては腐った林檎であり、語りたくない存在だからだ。臭いものには蓋をせねばならぬ。彼等の棄教の動機、その心理、その後の生き方はこうして教会にとって関心の外になり、それを受けた切支丹学者たちにとっても研究の対象とはならなくなったのである。
(中略) こうして弱者たちは政治家からも歴史家からも黙殺された。沈黙の灰のなかに埋められた。だが弱者たちもまた我々と同じ人間なのだ。彼等がそれまで自分の理想としていたものを、この世でもっとも善く、美しいと思っていたものを裏切った時、泪を流さなかったとどうして言えよう。後悔と恥とで身を震わせなかったとどうして言えよう。その悲しみや苦しみにたいして小説家である私は無関心ではいられなかった。彼等が転んだあとも、ひたすら歪んだ指をあわせ、言葉にならぬ祈りを唱えたとすれば、私の頬にも泪が流れるのである。
遠藤周作は「キリスト(神)とは・・・」の表現に注いだのであって、弾圧の背景は「既に周知の事」としてあえて触れなかった・・・で、ひとまず自己納得することにした。
 
昔習った禁教令や弾圧の背景を「既に周知の事」と申し上げたが、念のためネットで調べてみますと。
キリスト教が、一向一揆のように反乱を起こすことを恐れたため。
キリスト教徒が、神道・仏教を迫害したため。
キリスト教の布教が、日本を植民地化するための手段であると考えられたため。
等々・・・。


ところが学校の教科書にも載っていないような凄いの見つけて驚いたよ、ポルトガル人が日本人を奴隷として買い漁り輸出していたそうだ。
当然売る側の日本人も存在しないと商は成立しないから、戦国時代の真只中だから戦で負けた側の庶民は捉えられて売られちまったんだろうな・・・恐ろしや。
 
そこん所について、このようなブログ「しばやんの日々」を見つけましたので紹介。
16世紀後半に日本人奴隷が大量に海外流出したこととローマ教皇教書の関係~~その1
日本人奴隷が大量に海外流出したこととローマ教皇の教書との関係~~その2
日本人奴隷が大量に海外流出したこととローマ教皇の教書との関係~~その3
 
もうひとつおまけに、ポルトガル人による日本人などのアジア人の奴隷貿易

具体的に同胞を奴隷として売った大名や商人が誰なのか解らないけど、あらかた想像はつく、戦国時代がお得意なNHK大河ドラマも、民放放送の歴史番組も昨今豊富だが、ポルトガル人による日本人の奴隷貿易に付いて触れないのは何かあるんだろな? タブーなのかな?

NATSUMI HIRAJIMA

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カレンダーの一番上に NATSUMI HIRAJIMA とある。


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インターネットは便利なもので、平仮名で「なつみひらじま」と入力したら、あまたの画像が表れた。

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これらの画像とカレンダーを比較すると同一人物で、漢字表記では平嶋夏海と判明、元 AKB48 メンバーであるとやら・・・。

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即座に「彼女ね・・・」って詳しい方もいらっしゃるでしょうが、私は芸人に疎く、更に年齢も二十代と残念ながら守備範囲の外でもあり、全く存じ上げませんでしたのよ。
彼女についてこれ以上の探求捜査は興味がないのでここまで。
(今後の嗜好が変われば話は別ですが)

とは申せ、男として云わせてもらえれば、ちょっと太目で素敵ですなぁ~~!


イメージ 4

毎年某所より頂戴していた、お肌露出のカレンダー。
昨年度は貰うの忘れたていた)
此れを釣道具倉庫に吊るし、本来のような今週の予定を書き込むような使い方はせず、肌をデジカメで捕えノウガキを添えてブログネタとし扱わせていただいていたのであった。
年に数回とは申せカメラ片手に倉庫まで撮影に赴くのは面倒なので、今年は居間の壁に吊り下げたのだが。
私の妻はこれに戸惑い、いまひとつ乗り気なく下げて欲しいと感じているようであった。もし誰かが来訪の折に気掛りになるようであれば「この上から別のカレンダーで目隠しすればいいじゃん・・・、一回り大きなカレンダーを用意してあげるから」と、私は強引に吊るした。
しかし一回り大きなサイズの風景カレンダ-を手配することが果たせぬままに一ヶ月が過ぎた。
そこへ先週 妻の妹が訪ねて来たが、数日たっても妻から苦情はなく、このまま一年放置しても問題なさそうね・・・、安堵。

今年も某所よりいただいた、カレンダー女優のブログネタ復帰!
ちょっと太目の平嶋夏海でやんす。
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